華村千裕 オフィシャルブログ

AVプロダクションLINX(リンクス)所属のAV女優・華村千裕(はなむらちひろ Hanamura CHihiro)の公式ブログです。



「俺は何もかもかもわかる」と思う気になるのが、大学で学問をし出した20代の頃であるが、働いている年配や老人は、何もを諦めたとして、大切なものを忘却したとして、何かボケて見えるのである。
老人と付き合えば、棘のある言葉の躱し方や、「俺」とした会話を考えている態度など、見ていると舐めれないと知る。





親子の憤りももともとは魂が敵同士で有り、揉み合う中で、親は親で、子を家から追い出すように遺伝子的に思い、海へ出る。
会社でも、ショップでも、人を疎ましがらず、水にかかると思い、手足を動かしてもっと泳げるように、

海へ行く。
そして、自分の中に弾力をつける。





「しね、キモい、バカ」人を罵倒するのに叶った言葉を、大和言葉とするには、本当に傷ついた時に決死になり口にすればいい。

上品でもないのに繊細そうに、しょんぼりして、素直になれないし、粗い目の言葉にはすっぽりハマる。書物に埋もれて死んでしまう。


子供が大学生になったとき、必ず戦争を考える、必死に生きたいし、虚無を抱え月に行きたいとさえ云う。
「お前はリアルを知らない」等、云って私は教えの手伝いをしたい。
リアルとは、戦争でも刹那に生きる事でも何でもなく、綺麗になりたい、心でも身なりでも、そういう自分に対峙し、衣食住を継続する。
恐怖になりたい時だってあるし、
賢くなりたいのに、やり方がわからない。


問題は、西洋文化、戦争ですっかり忘れてしまったのだが、

聖お兄さんを見ててもおわかりのように

「天使」と「仏」では高度が違うが、まるまる神国だった古代から聖徳太子の仏教以来、今は、天使になりたい思想が加えられ、まろやかになった。しかし、時代は忙しくテンパって、まず祖母の代は苦労を教えなくなり、
現代すっかり優しくなってしまった。
甘すぎる気がする。
リアルとは何か?私達も子から学びたい。

たたかいに胸が熱くなったりすることもある。せやけど、そんな高いもんを望まれても、困るのである。





夢も希望も詩の理解も叶える。その為だけに、苦を苦としたり、哀しい時には泣き、嬉しい時に笑う。
八正道が深まるものだとしらなかったし、やってみたことがない人も多い。
味覚や五感などを、深めて、人間が人間になると、何かと良いこともある。良い客観性を持たなければ、自信なんてすぐ崩れる。


思想の模倣に留まって、「ロック」出来ているのかが心配だ。
「エミネム」や「ヒップホップ」「レゲエ」など、良いものを私たちは、聴いてきたが、
何度つきつけられても良いのは精神である。
エミネムの素晴らしさをどう祖父母や親と共有できるか? 

あるべき墓に入り、
あるべき星になり、









第10な1章 おじいはん

おじいはんの絶対見せたかったものは、隣の亦おじいはんが作った模型である。
週間少年ジャンプのチェンソーマンがモデルになってて、何やらめちゃ怖い。私の同人誌を勝手に茶の下敷きに使って、始まった喧嘩が口喧嘩でおさまらず、「かかって来いや。」と服を脱ぐおじいはん。題目はテレビで見た長老クイズで有る。自分が悪いのに誰かや云うて、もうそれさえ忘れる。
仏壇をナメながらカッコをつけて、あわよくば、死にたいとか桜の様に散りたいとか、年寄りを偏見する若者の姿に、自ら触れながら、登場させた恐怖マシンの模型で有る。
「ボケない、悪いことを悪いという。」
その言葉で小さくなったおじいはんのナイフ、チェンソー。
そんなものはさりとて骨董品とは違うのだ。食えない魚はちゃっちゃと海に返し、ちゃんと自分の好きなことをして、これを繰り返すさなか、地平線でビーチボールの様に浮かぶおじいはんの作品。何かを避けることが、何かを選ぶわけではない。何かを避けることが、それを選ばないわけでもない。強さを真似ても、気付かれる事は無いのだ。文脈ばかりが、現実を彫る事とも違うし、何に自分が魅力を感じて居るか、これに対して傷付くときに何の隙も無くなるだろう。
そういうのを、一瞬で汲み取る力とは?
既にその秘訣と強さを知るおじいはん。
「何も知らんかったわ。」と笑うおばあはん。

 

 

 

賢さや強さや格好の良さや素直さ、その全てのパスワードとは、人の誠の傷にただ気付いて居ることだ。老人からの「許可」は、そこに得るものが有る。週刊誌の写真で見た「今」より、自分自身の脈絡の方が「今」と云う概念に近付けるのだ。

「成る」と云う言葉がある。
私たちは会話上で、時に成り立った言葉や微笑みなど、そういうものを、そう云うものが何か約束になる、という意味である。桜のような淡さで、ゆっくり進む情けの様なあなた〈言葉〉と私〈言葉〉という関係。

何年か何百年毎に行事される天皇陛下の祀事では、今日遥か時代を超えた「成り」で
何かを学んだり感じたりする。
何年もかけてする。






ほんとはそこに花があるのになさ過ぎる。
時間が裏切らない気配だけがする。きっと大丈夫だ。

私について話をしよう。 美、恋、慈悲、何が裁かれていようと「私(I)」が憎しむその敵はいつだって当人一人で、彼と「タイマン」を望むなら、神は許すものである。 血縁者、幼さ、理由がいくつあっても憎しいというのは、そこに「わかってもらいたかった」という哀しみがあり、私が忘れず記憶にしているのはとんでもない悪意
が自身に歯向かった時自分が覚えれる範囲の痛みである。
持ち続けた痛みが、時代も関係なく損失させられた愛を探すのである。罰を、苦しいので人はそこまで考えないが、例えば、私の先祖が殺人をした娘を庇った、墓にも入れた。子孫に悪さをして困ってる。拝んだところで守護霊を言い張る。アシカヒヒコという「カタカムナ」で有名な悪霊であった。このややこしさが、祀りのそこでスポットをあてるように明らかになる。私が先か魂が先か、こう云う深い瞑想が時にされる。 祟り、祟るとは、哀しみをくらっても愛す努力を失わなかった実際の高さであり、周囲を傷つけたり「自分を呪う」とも違って、限られた者の言葉であり、これは生きた「人」が為す愛なのだ。知るほどに人は怒り哀しむから、敢えて人間を神と治め、長い時を待った。和のとき思想から昔まつってたらその乗りで今出てきてかわいそうだとして、他人血を取った 罪以外責れない。何かを知ったあとと知る前とあなたの何が変わるか。そう云うと、人を迂闊に怒れない。「何をしに来たんや」

 悔しさ辛さは乗り越える事の可能な、これまた人生だから。


祀りが、心的に「祭り」にかかってるんだなぁ、と何となく知る私たち。知ることも学びにも人にペースがあり、理解を求めにくい人は避けている。喧嘩になったら終わってしまうタイプの人のようである。「下の人に負担がかかる」のが祀りの原因で、何かと悲し過ぎることもあるので、過ごす、ことの季節を待つ。 

ほんまは天皇は、偉いことよりも人っ気があるということに私は穏やかな憧れとまた意思を生み、いつも人波に埋もれるのは当然だが、押し戻されてのうのうとしている。 その意思がやけに夢だけで出来ていて、国民というよりは、憧れた一軍一人の感じた天の心地の記憶が確かなのは、「成る」からである。格好が良いとは、支極は仕事をしているとか、身なりを整えているとか、だけど、かつてこの辺で戦士の勝負があったのだろうか、ここで負敗している私とは何か?をもやもやさせる気付きです。男だとか女だとかに回らず、回避せず、本当の闘いをしたい。
heart!は真似が出来ないし、「心」は見る事が出来ない。「心」には裏と表とがある。

人間が迂闊に笑わないから、心の確認など何かと自他を信用して居る。可笑しくて可笑しくて、かくれて笑む。間違っても人に晒さない。ん

↑このページのトップヘ