お早うございます。
華村は二宮金次郎はもとより学問が好きで御座います。「学問」という言葉が、先ず好きです。その何事も浅くは有りますが、興味の有る事は何でもじっくりとたのしみます。
学びか何で有るかなのですが、孔子云う、くんしは学ぶ、と。学びは何でありましょうかな、物を知る事もそうですが、学(あそ)ぶこと、何やら「なんの為か」は、昭和50年の大学闘争時代から、何かの研究をするに付けて書かなければならないルールとなったそうです。「それについて考していたら、いつの間にか人の役に立ってしまった」学問の本来の形で有ります。字の綺麗さよりも、対する熱情が何かを発見し続ける。
「本、書物」そのものが奥ゆかしいのですが、
学問は、自分のゆき道を授けてくれる事も無く、灯籠として人を楽しませたり、道について何かを云ったりする。
勇気と水との距離感を飲食店のアルバイトで働いて学んだ事がある。
お客様のとても冷たい部分に良く当たる。
神のような気持をするくらい、幸せな時がある。それでも人間は、もう一度濁り、濁りをまた研いでいく。
目は、茶の様に「澄んでいる」。
では、ただ褪せるとは、いのちの魂が見えない事か知ら。
感情とは、焼き餅でもゆっくり感じるとぽかぽかする。魂を、削らずにゆっくり手に取ってみる。自分の中で起こること、自分の中に起こる感情を、全て自分のせいにして、掬(救)う、それを心とする。
その後に「質問」と「回答」があなたと私の間に繰り返される。
答えを出さずに諦める人が多い。
悩むことと迷うことも亦、真逆程違って、悩みには答えが必ず有る。それが形を持って居なくても、人の力になる事や心を強くするには、しっかりノートとベンを使う事だ。空に行きたかったら行く方法として、重力(地)と心(天)が要る。
「道」はこの様に見抜く。埃、煙埃、それを丁寧にはらい、綺麗にする。目的は無いが、誰もが無いのが知の実際だと華村は思う。