この辺が違います。
持ち続けた痛みが、時代も関係なく損失させられた愛を探すのである。罰を、苦しいので人はそこまで考えないが、例えば、私の先祖が殺人をした娘を庇った、墓にも入れた。子孫に悪さをして困ってる。拝んだところで守護霊を言い張る。アシカヒヒコという「カタカムナ」で有名な悪霊であった。このややこしさが、祀りのそこでスポットをあてるように明らかになる。私が先か魂が先か、こう云う深い瞑想が時にされる。 祟り、祟るとは、哀しみをくらっても愛す努力を失わなかった実際の高さであり、周囲を傷つけたり「自分を呪う」とも違って、限られた者の言葉であり、これは生きた「人」が為す愛なのだ。知るほどに人は怒り哀しむから、敢えて人間を神と治め、長い時を待った。和のとき思想から昔まつってたらその乗りで今出てきてかわいそうだとして、他人血を取った 罪以外責れない。何かを知ったあとと知る前とあなたの何が変わるか。そう云うと、人を迂闊に怒れない。