華村千裕 オフィシャルブログ

AVプロダクションLINX(リンクス)所属のAV女優・華村千裕(はなむらちひろ Hanamura CHihiro)の公式ブログです。

2021年07月

「祀り」というここの日記を、書き加えました。全然違うので読んでください。


この辺が違います。


持ち続けた痛みが、時代も関係なく損失させられた愛を探すのである。罰を、苦しいので人はそこまで考えないが、例えば、私の先祖が殺人をした娘を庇った、墓にも入れた。子孫に悪さをして困ってる。拝んだところで守護霊を言い張る。アシカヒヒコという「カタカムナ」で有名な悪霊であった。このややこしさが、祀りのそこでスポットをあてるように明らかになる。私が先か魂が先か、こう云う深い瞑想が時にされる。 祟り、祟るとは、哀しみをくらっても愛す努力を失わなかった実際の高さであり、周囲を傷つけたり「自分を呪う」とも違って、限られた者の言葉であり、これは生きた「人」が為す愛なのだ。知るほどに人は怒り哀しむから、敢えて人間を神と治め、長い時を待った。和のとき思想から昔まつってたらその乗りで今出てきてかわいそうだとして、他人血を取った 罪以外責れない。何かを知ったあとと知る前とあなたの何が変わるか。そう云うと、人を迂闊に怒れない。

死ねって何か勝手に言うだろう、、こういうふうに生きてていい


何か黒いことに抗体をつくてくれた☆

とか

他人は作用してる!と云うけれど、

まん丸に云うけど、

こういうふうに月の横に居る人を豚と云い

強くなって来たんは自分やし、お陰様じゃ無いんだな。

過去の自分に何言っても変わらないから

 



猿人から始める
敵が「居ない」、
「僕が無敵な時代」はわたしは知らないが
理性がないんや
自分を神だと云ってしまった人たち
虎ノ門、全部嘘


全部誰かのせいにして、挙げ句の果て自殺

最後をさらに誰かのせいにして、可哀想ぶる



全部誰かのせいにして、さらにさらにその上から自殺

しんどかったら死んでもいいけど



他人にこんなにリラックスして覆いかぶさって、まるまる猿人をして自分が包まれて、客観視する視点が欲しかってん


性を感じる

 

 

 


人間になれないから許せない
認めれないじゃなくて
認めないくせがついてる

何かを云えない、云うって何だろう?

 

またあの部屋だ。

人も自己知の全てを
甘いで、こうなるで、人はこうやで、

「意地悪は神だけでいい」
魔法の言葉は

 

 

「お前が何しても、何をしても」

反返る性欲の大きさは

 


どす暗い

 

誰も頼れない

 

もっと抵抗して欲しい

 

 

道頓堀に願い事をしたら聞いてくれる良いことを知った

 

 

文学ノート

正直に、心の

嫌を避けて書いたら


最近は先祖の上の「祖」(縄文時代とかの2つ結の人)と話をしてる

先祖を拝んで線香立てて祈って、

祖に感謝や何かを伝える。

これはやってほしい、腐らないように

 

どんな先祖でも、憎まず反対することを反対して

と、言う感じ



 


まぁ、手を合わせることは、美しいし、よそが何で優れてるか言うたら宗教に深いからで。

心が痛いと云う。
本人は今を生きれたりけっこう楽やと云う事がわかってくる。

しかし、自分の地がわからない。
嫌なものが生まれるのは、自分が浮ついた時。
間違えて、相手(光)を敵と思う。

あたたかい太陽が、
太陽が、わかる時、

相手と私のその間、何ぼも痛いのは、相手(光)に近づけば近づくほど、耐えられなくなる。
それは、「地」を、その心を、かやの外に置いてるから。相手を、確認出来ない。

相手と私のその間なんぼも痛い、辛い。
相手(光)に近づけば近づくほど、心が痛いのは、精神力がないから。
地と云う心が、自分の外側に有るから。

幸せについて考えるのに、揃って地がわからなかった。

かひし私、それは誰も知らなかった。

天地は上下では無い。友達なのだ。何故わからぬ。


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お早うございます。華村です。

今日は趣味を、語ります。
蝉が鳴いていますね(*´∀`*)
雨も、つうつう降って、朝四時の空は紺色で、とても神秘的です。
洗濯機を回して、これを書いて居ます。



華村は釈迦や仏陀、佛経が好きで、日頃読んで居ます。
昨日一人で、奈良に行きました。奈良といえば平城京。町は古いけど整えられて居て、広く、物も人も何でも大きい。何でも大きいです。大きな殿の広場で、感じれるのすぐそばの弥生時代の息吹。広大な草原、どこか寂しげで、落ち着いた。春日大社も、大きい。
何だかわくわくしますね。
茶道も長けて居てどっか行くと、出迎えてくれる。江戸の新しさから、東京は今も喧嘩っ早いが、東京の小気味の良いな言葉と喧嘩で空気を清めようとする。不良は不良で、どことなく落ち着いて居る。文化と云えばアート。桜。そんな何でも新しい町の特徴から、対極された、奈良は古いその故に風紀が良いし、


大阪もまた余り知られて居ないが、難波京としては奈良より、東京より、日本では最も古い。美意識が高く何でも許していくような態度を続けると、表面的にアホの様になる。その経験の間、よく辛抱をするので、「上方」の名は結構最近で、江戸時代以降。いつの間にか人よりも上手(うわて)になったから、
上方文化云うけれど、着物や清酒、うどん、近松門左衛門、そんな道に対しておおきな茶の見物が多い。それは馬鹿や。

その人がやっている事と同じ事を目指す事。
勉学、心的な労働。
太陽は有るものやで。嫉妬で人間は死んでしまう。辛さとか嫉妬に自分が有って、そこから感じ取らなければ、天はない。
「イマジン」と云う歌のように、
人間に天国がないのは、自分に地を定める力かないから。全然空なんて見上げていませんね。だから地球もないような気がして来る。恐怖になって、戦争をしなきゃいけない、と言う考えが。日本にさえ出てくる。核シェルターが何で日本にあって、しかも何でその全てが破棄され今空が青々としたかとたかというと、指図したのはどこかは知らないが、一番試したい国だったから。柱やってん。
この一連がコロナやってん。
安倍さんも菅さんも税金かなんかでわざと銀座のクラブにいった政治家のおじいさんも、「君を守りたい」って云うてん。



如来や菩薩の美しさ。

釈迦と仏陀は、それぞれが有る様だ。
釈迦はただの精神の麗人で、人間の躾をする偉い佛、それぞれの悟りが、空にいつまでも曼荼羅を描いて居る。


釈迦(花)の足を必死に昇って行った仏陀とは、美貌として、父や母に子は叶わぬと云うこと、子はその辛さ。辛さまで来て愛に為って、初めて仏境涯を得る。
 
堕落的に生きるという事の反対に、社会的であると云うこと。
幸せは堕落的な人のものではないが、厳しい瞑想などを修行をすることで、落ちていてもそれなりの「相」が出来る。光と影とのバランスが出来るのだ。

人のなりふりで自分を正した結果、嫉妬も何も失ったらもうサイヤク。そう云うの、白比べって云って、「皆様」って云うねん。もっと鮮やかに!








何でも、悩む時夢か現実か、ではなく、夢とか夢じゃない、ではなく、
虚構は、想像しているのか妄想しているのか。

フランス映画や漫画など妄想が規格を持って「相」となったりもする。
妄想は、自己内の空想や、相手に近付く前の非現実や。
「あなた」の輪郭を描くために、
このもやもやを消去して行くには、対面する。対面とは、「自己自身である心臓と、精神が一つになる状態」つまり、「質問」をちゃんと出来、自分で消費出来る人。
文筆なども、ここで伸びて行く。

虚構は、このように相手に近付きゆっくりリアルな感触の線を紙にくり抜いて行く。

シーレなどを憧れたのは、この理由だ。



義憤している。

人と比べるなと云うが、此の時と云う此の時、他と比較を為(す)る。
指を数えて、
霊性の広がりを感じる。性は、自分よりも更なる逢瀬だ。
星の生まれる途中、芸術は、
苦悩からとうに放たれて居る。









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